読書に対する姿勢、あるいは求めるもの
以前予告した、
「清涼院流水の本に怒るか否かから、読書に対する姿勢について」
をそろそろ書こうかな、と。
関係ないですが、PCのマザーボードが壊れて来年までPCがない状態が続くので、しばらくはiPhoneから更新。
さて、清涼院流水の本は、良く「壁本」の代表格として上げられます。
あまりにも内容がひどくて、途中や読後に壁に投げつけたくなる本、ということで、まあなんというか、ネタとしてしてしかオススメされない本となっている気がします。
しかし、自分はコズミック・ジョーカー、Wドライヴ 院、カーニバルと読みましたが、確かにかなりツッコミどころしかないようなトリックだったりしたけれど、最後まで普通に読めました(カーニバルは長いという意味では苦痛でしたが)。
普通に、ああこんなトリック使ってきたのか、はっはっは、みたいな感じで。例えるなら、ハリー・ポッターとか半月とかマルドゥック・スクランブルを読むときみたいに、展開を楽しめたというか。
今でも、時間に余裕ができたら読み返してもいいな、と思っています。
そこで、じゃあなぜ、壁に投げつけたくなったりする人とは違った心境で読めたのかな、と考えたわけですが、それは読書に求めるものが違うからかな、と考えたわけです。
清涼院流水を読んで壁に投げたくなった(あるいは投げた人)は、読書に対して、ある一定の論理や常識を保ちつつ、面白かったり泣けたりするものを求めているのだと思います。
それに対して、自分のように特に他の本と同じような心境で読み終えた人は、読書に対して、感覚的な面白さを求めているのかな、と。その、感覚的にというのは、リズムが良かったり何も考えずに読めたりといったことや、心情がくどくどと書かれていて共感がしやすいとか、そういう感じです。
で、前者のタイプの人は、ミステリはミステリとして読むので、清涼院流水の本を投げたくなったりするけれど、後者のタイプはとにかく感覚的に面白ければいいから、ミステリのはずなのに論理的でなかったりしても、楽しめることは楽しめるのかなー、と。
結構思いつきで書いたので、校正とかもしてないし内容もあまり見返してないので、まあそれこそ、感覚的に分かってもらえたらな、と思います。
次の更新は、金曜にヱヴァQの2回目を見に行くので、それで思ったことなんかを書きたいなー。覚えていれば。
それでは。